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もう一つの歴史

ナポイ劇場!日本人捕虜の誇りがウズベキスタンの人々の心に・・・

第二次世界大戦末期突如、ソ連軍が満州に侵攻、これにより多くの日本人がソ連軍の捕虜になりました。その後日本人は強制労働を強いられました。日本人が強制労働で建てたナポイ劇場、その建物には日本人の誇りが詰まっていました。そして、1966年ウズベキスタンを直下型の大地震が襲いました。大地震の中ナポイ劇場は・・・・・。被災の中、ナポイ劇場を見たウズベキスタンの人々は何を思ったのか?その時、奇跡が起きる。

ナポイ劇場!日本人捕虜の誇りがウズベキスタンの人々の心に・・・

 

旧ソ連、現在のウズベキスタンに日本人捕虜が建てた建造物が存在している。

 

それがナポイ劇場である。

 

大きな地震が襲った時も、周りの建物が崩壊していくなか、このナポイ劇場はビクともしなかった。

 

 

ソ連による日本人捕虜虐待

1945年、日本は第2次世界大戦で、アメリカ、イギリス、オランダ、中国などと激しい戦争を続けていた。

 

日本は形勢不利で、徐々に追い詰められていた。

 

原子爆弾の投下より、日本の敗戦が濃厚となった、1945年8月ソ連は突如、不可侵条約を破棄して日本に侵攻した。

 

突然のソ連軍の進行により日本軍は各地で壊滅。

 

その際に、たくさんの人達の命が奪われ、多数の人がソ連の捕虜となった。

 

本来、捕虜の虐待は国際法違反にあてはまるが、ソ連の捕虜になった人達の運命は過酷で多くが強制労働の任についた。

 

強制労働の中で、多くの日本人が命を失った。

 

 

ナポイ劇場

旧ソ連、現在のウズベキスタンで、日本人の捕虜達はナポイ劇場の建設を強制させられた。

 

その苛酷な労働の中、多くの日本人捕虜が命を失った。

 

しかし、苛酷な労働の中にあっても日本人達は自分達の誇りを失う事はなかった。

 

日本人達は物作りに対して、手抜き工事をせず丁寧に工事を進めていった。

 

ナポイ劇場は約500人の労働者が約2年の歳月を費やして完成した。

 

日本人の懸命に働くその姿に、現地の人達は心を揺さぶられ、長い月日の後、ある奇跡が起きる。

 

 

大地震

1966年ウズベキスタンを直下型の大地震が襲いました。

 

この時、ほとんどの家屋が崩壊、街はほとんど壊滅し、多くの被害がでました。

 

しかし、日本人が建設した、このナポイ劇場だけは、周辺の建物が崩壊している中、ビクともせずに、現状を維持しました。

 

これを見たウズベキスタンの人達は何を思ったのだろうか。

 

大震災と言う厳しい状況下で、ナポイ劇場の姿を見る事がどれほどの勇気を与えたか、その効果は計り知れません。

 

また、復興へ向けての精神的な柱になった事でしょう。

 

ナポイ劇場は日本とウズベキスタンの友好のかけ橋となりました。

 

 

ナポイ劇場のプレート

ナポイ劇場の記念プレートには以前、ウズベキ語、ロシア語、英語で「日本人捕虜によって建てられたものである。」と書かれていました。

 

しかし、このプレートを見たウズベキスタンの大統領は違和感をおぼえました。

 

その違和感は、捕虜という言葉と日本語で書かれていない事に対してです。

 

ウズベキスタンと日本は一度も戦争をしたことがなく、日本人を捕虜にしたこともないので、捕虜と言う言葉は相応しくない。

 

そして、1996年、新たなプレートに作り替えられました。

 

日本人の懸命に働くその姿に、心を揺さぶられた人達によって、ある奇跡が起きました。

 

そのプレートには

 

1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォーイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」とウズベク語、日本語、英語、ロシア語で書かれていました。

 

日本人の名誉が回復し、日本人の誇りが称えられた瞬間でもありました。

 

この言葉を見た日本人は何を思うのだろうか。

 

おそらく、日本人の素晴らしさを再確認して、胸が熱くなると思います。

 

日本とウズベキスタンを結び付ける心温まる物語として伝えていきたい話である。

 

 

教科書にのせたい

・日本人捕虜が建設したナポイ劇場

・大地震でも、びくりともしなかったナポイ劇場

・ウズベキスタンの人達の心をつき動かした日本人達

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