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山本慈昭と中国残留孤児の父!日本と中国を動かした執念‐必ず迎えに行く

霞ケ浦の変人と呼ばれた男の執念が、日本政府と中国政府を動かす。戦争が終わり35年の月日が経過、本当に家族と再会することが出来るのか。そして、80歳になった山本に運命の神様がほほ笑む。一人の男の熱い思いが奇跡を生み出す。

山本慈昭と中国残留孤児の父!日本と中国を動かした執念‐必ず迎えに行く

 

 

中国残留孤児が発生した原因
二次世界大戦末期、ソ連が突如、不可侵条約を破棄して、満州(中国東北地方)に侵攻。


当時、満州には日本の移民が大量に住んでいた。


ソ連軍から逃げる途中で、多くの命が奪われ、多くの人達が捕虜となり過酷な強制労働を強いられた。

 

 また、逃げる途中で、後の中国残留孤児も発生した。
 

第二次大戦後、日本と中国は国交を閉ざしたので、中国残留孤児の存在が世間に知られる事は無かった。


日本と中国との国交が回復後、徐々に中国残留孤児の存在が分かってきた。
 

 

中国残留孤児の父
後に中国残留孤児の父と呼ばれた山本慈昭は長野県に生まれた。


その後、お寺の住職として地域社会で生活をした。


日本は20世紀初めから第二次大戦中まで、中国東北地方の満州への移民政策を推し進めていました。


第二次大戦末期、山本が住む阿智村でも満州への移民の話が持ちあがった。

阿智村の住所の強い要望もあり、山本は家族と共に満州へ渡る事を決めた。
山本をのせた移民船は、戦況の悪化により、最後の満州への移民船となった。
 

満州の地に到着した阿智村の人々は、不毛の大地を耕した。
 

しかし、数ヶ月後にはソ連軍が満州に侵攻してきた。
 

阿智村の人々は逃げるしか方法が無かった。
 

山本は逃げる途中でソ連軍に捕まり、家族とも離ればなれになってしまった。
 

ソ連軍の捕虜の扱いは非人道的であった。

 

山本は過酷な強制労働の任についた。

 

ソ連での日々は想像を絶する過酷さであった。寒さ、飢え、重労働、体力は奪われ、多くの日本人の命が奪われた。

 

何度も心がくじけそうになった山本

 

「家族に会いたい、会いたい…」
 

家族に会うという強い思いが山本を支えた。
 

 

日本に帰国した山本慈昭

シベリア抑留も終わり、山本は家族に会うために日本へ帰国した。

 

「これでやっと家族に会える」

 

しかし、山本を悲劇が待ち構えていた。

 

山本の家族は死んだと阿智村の生存者から聞かされた。
 

「満州に家族を連れて行ったのは自分、もし、家族を満州に連れて行かなければ、死ぬことはなかった。」
 

山本は自分自身を攻め続けた。家族を殺したのは自分だ。くやみ、つぐなう日々を過ごした。
 

その後、村の子供達が死んだのはうそで、逃げる途中中国人に預けられたと知らされた。
 

自分の子供や村の子供達が中国で生きている。一筋の小さな光が山本を照らした。

 

我が子や村の子供たちに会えるそう思うと居ても立っても居られなかった。必ずむかえに行くと誓う山本であった。
 

しかし、その頃、日本は中国との国交を閉ざしていたのでどうする事も出来なかった。
 

その後、昭和47年日中は国交を回復。

 

中国残留孤児問題解決に向けて

日本政府は当初中国残留孤児の調査に消極的であった。

 

 山本慈照は、外務省や法務省に働きかけて、何度も中国残留孤児の調査を訴えるが、まったく相手にしてもらえなかった。

断わられても、何度も何度も交渉を続けた。

 

断れて、何度もくじけそうになったが

 

「生き別れた子供達に会いたい」

 

その思いが山本を突き動かしていた。いつしか、霞が関では、山本の事を満州がえりの変人坊主と呼んでいた。


「ここであきらめるわけにはいかない。子供達にあうその日まで」

 

1人での活動、国家から理解されない活動に山本は精神力を奪われていった。

 

進展しない状況が続いたが、それでもあきらめなかった山本。

 

そんな山本に運命の女神がほほ笑んだ。

 

山本の粘り強い熱い思いに、手伝いたいと願う賛同者が次々に現れた。

 

「1人じゃないこれからは仲間がいる」

 

賛同者達もまた、生き別れた子供達に会いたいと願う人達であった。

 

賛同者たちは皆年老いていた。

 

山本と賛同者達の思いは1つであった。

 

「必ず、子供たちを取り戻す」

 

この中国残留孤児問題は時間との戦いであった。


山本達の悲痛な思いは、大きなうねりとなって、逃げ腰だった日本政府を突き動かしていく。


また、日本政府だけでなく、中国政府をも動かし、ついに調査団の派遣が許された。

1人の男の執念が、賛同者を得、大きな力となり、日中両政府を動かす力となったのである。


昭和55年、山本を含めた26人の調査団が満州の地に降り立った。


この時、戦後35年の年月が経過していた。


中国残留孤児の問題は35年の歳月を乗り越える親子の絆でもあった。
 

その後、中国残留孤児の調査は何度も行われ、約670人の身元が判明した。
 

しかしその反面、中国残留孤児の中には調査をしても親が見つからない人もたくさんいた。

 

親が見つからない悲痛な思いの中国残留孤児達に山本は本音を語り支えた。

 

 

執念が生んだ奇跡

1982年、80歳になった山本の元に1つの連絡が舞い込んだ。


満州にて、山本は1人の40代の女性に再会した。


それは、37年ぶりに再会した我が娘ひろえであった。
 

山本の37年の悲願の思いが達成された瞬間であった。
 

1人の男の執念が、生んだ奇跡であった。

 

9年後、山本は88年の人生に幕を閉じた。
 

中国残留孤児の父として、山本慈昭の功績を讃えたい。

 

 

教科書にのせたい

・ソ連の非人道的な行為

・ソ連の侵攻により極限状態に追い込まれていた状況

・中国残量孤児問題

・1人の男の執念が、日本政府と中国政府を動かしたこと

・山本慈昭の生き様

・子を思う親の気持ち

感動の秘話   2018/08/15   history

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